――3歳の頃に、寄席の絵を描く
僕は小さい頃から絵を描いたり、表現することが大好きでした。両親は、創作活動など一切興味もなく、「大学=社会に通用するパスポート」と思っていた時代の人だったので、「勉強しろ、東大に行け」と言われ続けていました。
最初に描いた絵の記憶は3歳。祖母に連れて行ってもらった寄席の様子を、家に帰ってきて、一気に描き上げたのを鮮明に覚えています。家の白壁に当時のヒーローだった鞍馬天狗の絵も描きました。自分が描いた絵を見て、人が喜ぶ。子ども心にも、そのリアクションがたまらなかった。
いたずらもよくしました。芸術心が当時からあったのか、母が吊るした真新しいカーテンが何だかのっぺりしていて面白くないと思った僕は、そばにあったはさみで、すそをジグザグに切ってしまったんです。そんな子どもだったから、親にはとにかくよく怒られました。
小学生のときには、絵の教室にも通わされましたが、空想の世界を描くのが好きだった僕は、花や置物を描かされるその教室があまり好きじゃなかったんですね。その後、高校では美術部に入り油絵をやりましたが、大学は法学部へ進学。でも、やっぱり絵が描きたくって、学生の頃から少しずつイラストレーターの仕事を始めました。
専門的に絵の勉強をしたことはないんですが、友だちのアトリエに行ってはどんな画材を使ってどんな方法で描いているのか情報交換をしたり、専門書などを見て独学で勉強しました。
――視力を失っても、表現者でありたい
大学在学中から視力を失うまで、「みつや君のマークX」など、約60冊の児童書や絵本の絵を描いていたのですが、35歳のときに糖尿病と言われ、38歳で失明。その時は、かなり落胆しました。でも、失明の運命を受け入れたとき「死ぬまで表現者でありたい」と思ったんです。
子どもの頃、絵を描くのと同じくらい文章を書くことも好きだったので、「絵が描けないのなら、自分の頭の中にある世界を文章で表現すればいい」そう思ったんです。完全失明するまで、自分には見えない文字で文章を書く練習をしました。失明した年に原稿用紙にして、約220枚の長編童話「UFOリンゴと宇宙ネコ」を書き上げ、第18回児童文芸新人賞を受賞しました。
視力を失ってからは、絵を描くことからは遠ざかっていたのですが、妻が「私たちの結婚式のお返しに絵を描いてみたら。」と言ったのがきっかけとなり、再び絵を描き始めました。
目が見えていた頃の作品を見てもらえばわかると思いますが、「みつや君のマークX」「ざっくりぶうぶうがたがたごろろ」など乗り物などのメカニックな絵、細かい絵が好きだったんですよね。でも、さすがに前と同じようには描けない。そこで、乗り物やメカと同じくらい大好きな動物を描くことにしたんです。
絵を描くときは、ボールペンでかなり力を入れて描きます。筆圧で紙にくぼみができるので、そのくぼみを指で感じとりながら、絵を仕上げていく。描いた絵は見えませんが、頭の中ではちゃんと計算しているのです。
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